2019.4.16
MUSIC

HIROBA Part 2
旗を振るひと

HIROBAの第一弾の音楽作品は、
尊敬する小田和正さんとのコラボレーション楽曲です。

「昔はコラボレーションだなんて言わなかった。“一緒にやろう”だったよ」

そう言われたからといって、
軽々しく、あのひとに声をかけられるわけもなく。
勇気が必要なことだったし、念願が叶ったことでもありました。

「YOU」そして「I」
2つの楽曲ができあがるまでのストーリーを、
ここで話していきたいと思います。

Part2 旗を振るひと

「理由は、なんだ」

問いに、問いで返すのは良くない。
それはわかっているが、すべてはその問いから始まったから、
ここでは、そこから書いていくしかない。

なぜ、あのひとは変わっていったのだろう。

1982年、オフコースは日本武道館連続10日間公演という偉業を成し遂げた。
翌年、初期からのメンバーだった鈴木康博さんが脱退したこともあって、
このライブはいわゆる“伝説”として語られるようになる。

その年に、自分は生まれている。
時が経って、当時の小田さんの年齢を自分はもう越えた。

以前、藤井フミヤさんが「クリスマスの約束」の収録現場で、
はしゃぐ後輩たちに向かって言ったことがあった。
「お前らはさ、小田さんが優しくなってからしか知らないんだよ。
昔の小田さん、めちゃくちゃ怖かったんだからな!」

もちろん冗談めかして話しているのだけれど、あながち大げさでもなく、
おそらく今の自分と同じくらいの年齢のときの小田さんは、
少なくとも近寄りやすい存在ではなかったはずだ。

「難攻不落の“オフコース城”なんて言われていたからな」

小田さん自身もそう当時を振り返って笑っていたが、
テレビをはじめメディアに出ること自体が少なく、
インタビューなどでもあまり多くを語らず、
ブレイクしてからは他のアーティストと交わるようなことも少なかった。
孤高という言葉のほうが似合っていたと思う。

それが、やがて自身が矢面に立つかたちでテレビの音楽番組を持った。
世代やジャンルを問わず、これだと思ったひとには敬意を素直に伝え、
多くの仲間たちとつながるようになる。

オフコース時代は
曲間のMCさえほとんどなかったクールなライブだったというが、
現在のライブでは、少しでもお客さんに近いところで歌おうと、
ステージにはいくつもの花道がついていて、
それでは飽き足らず、客席まで降りていくこともしばしばで、
ホールの隅から隅までを自分の足で駆け回る。
マイクを手にして、歌いながら。

地方公演では、わざわざ現地に数日前に入り、
周辺の観光スポットを事前にまわって映像を撮影する。
「ご当地紀行」と呼ばれるその映像は、ライブで流される定番企画で
わが町に本当にあの小田和正が来てくれたんだと、
各地のファンはいつもそれを見て大いに喜ぶ。

もちろん観客に媚びたりするようなことはしないが、
「喜んでもらおう」という気持ちは全面に出ている演出、構成、ステージセット。

「あのひとたちがガッカリして帰ったら、それはつらいからね。
せっかく来てくれたんだから、少しでもなにか持って帰らせたいなって、思うよね」

30代の頃の小田さんと、70代の今の小田さん。
失礼を承知でいえば、真逆のようにも見えてしまう。

変化はどこから生まれたのか。

ずっとあのひとは、
ひとりで旗を振っているように、見えた。

18年前。
浪人生の頃、実家で見た第一回目の「クリスマスの約束」。

同じ時代を生きてきて、
音楽をつくり続けてきた者たちが
互いに認め合い、敬意を伝え合う。
そういう“場”をあのときの小田さんはつくろうとしていた。

選んだ7つの名曲。
7組のアーティストに小田さんは手紙を書いた。

しかし、ゲストは誰ひとり来なかった。

想いが伝わらなかったわけではない。
そのとき手紙を受け取ったアーティストたちは、
それぞれの言葉で小田さんに返事を戻し、その想いに応えた。
のちに、出演を果たしたひともいた。

もとより誰も来なくても、その覚悟だったという。
7つの名曲を、そのとき小田さんはたったひとりで歌いきった。

たったひとりの小田さん。
そこから物語は始まっていて、
やがて自分も、その物語の脇に身を寄せることになる。

2006年に「SAKURA」を取り上げてもらった。

よく勘違いされるが自分たちはデビュー曲からヒットして
順風満帆にキャリアを歩んできたと思われがちだ。
辛酸を舐めるほどの苦労をしたつもりはないけれど、
ヒットしたと言われたデビュー曲の「SAKURA」のオリコン最高位は17位。
大きくブレイクしたとまでは言い切れなかった。

「クリスマスの約束」が収録される1カ月前くらいには、
初めての全国ツアーを行っていたが、移動はハイエース1台。
北海道には修学旅行生に交ざってフェリーに乗り込んで向かった。
船のなかで個室はなく、大部屋で雑魚寝をしての移動だ。
福岡公演は、10枚ほどしかチケットが売れなかった。

そういう時期に、
あのひとは「SAKURA」という歌に、
ちゃんと気づいてくれた。

2009年にもう一度、呼ばれた。

10組、20組…可能ならもっと多くのアーティストを呼んで、
プロのシンガーたちのユニゾン(斉唱)で楽曲を届けてみたいという。

想像がつかなかった。
最初は何を言っているのか、理解できなかった。

各世代から1組ずつ。
小田さんとともに企画を練る人間が集められた。
スターダスト☆レビュー根本要。
スキマスイッチ大橋卓弥、常田真太郎。
いきものがかり水野良樹。

「小委員会」と名付けられたその会で、
もうどれほどの時間をかけて話し合っただろう。
何十時間も5人でやりとりを交わした。

検討を経てユニゾンの企画はかたちを変え、
参加アーティストたちの代表曲を
出演者全員(20組33名)で一気に歌い上げる試みになった。

総演奏時間から名付けられた「22“50”」というこの大メドレー。
終わったとき。会場の観客は総立ち、10分近く鳴り止まない拍手。
信じられない光景はこれからの音楽人生で目標となる景色になった。

「小田さんには、最初からこれが見えていたのか」

わからない。
それはわからないが、
小田さんがたったひとりで始めた物語が、
とても遠くにたどり着いていることは疑いようがない。
ずっとひとりで旗を振っていたところに、
多くの誰かが集まっていた。

そこで、もう少し多くのことに気がついた。

旗を振る背中は、自分が前面に出ることを嫌っていた。

番組名には「小田和正の」という枕詞がついていて、
もちろん参加アーティストも
その名の信頼のもとに集まっているのだけれど、
当の本人は番組で自分の歌を選ぶことに消極的で、
また、自身にだけスポットライトが集まることを拒んでいた。

「みんな小田さんの歌が聴きたいんですよ」とまわりは口々に言う。
「いや、俺はもういいんだよ」と小田さんが返す。

そんな光景を何度も見た。

同じ時代を生きてきて、
ともに音楽をつくってきた者たちが
互いに価値を認め合い、敬意を伝え合う。
単独戦というよりは団体戦。

それが小田さんの一貫した姿勢だった。
先輩たちに話を聞けば、
それは実は30代の頃から
小田さんが持ち続けていた願いだという。
日本でも音楽家たちが互いを称え合うアワードをつくれないか。
あのひとは孤高という形容詞をつけられていた30代の頃から、
外へ、外へと、踏み出そうとしていた。

いくつかの挫折と試行錯誤の先に
「クリスマスの約束」もある。

小田和正の「クリスマスの約束」を
みんなの「クリスマスの約束」にしようとしている。
自分からはそう見えた。

そしてそれは、まだ完璧には叶ってはいない。

あのひとの存在は大きすぎる。
身を寄せる大樹として、太すぎる。

だから逆風が吹けば、
あの背中が風のほとんどを受け止めるし。
集まりたいときは、
あの背中のもとにみんなが集まってしまう。
小田和正という存在が真ん中にある“場”であることは、なかなか変わらない。

それでも、ずっとあのひとは旗を振っている。
たったひとりで。
弱音は吐かない。人のせいにもしない。言い訳もしない。
ただ懸命に、旗を振っている。

自分は、あの姿から何を受け取ればいいのだろう。
何度もともに音を鳴らし、声を重ねる経験を踏ませてもらうなかで、
それは、ずっと考えてきたことだった。

同じことをしても仕方ない。
そして当然ながら、できるわけもない。
あんな大樹になろうとすることはできない。途方もない。

でも、小さな芽でもいい。
自立して。
あの精神から何かを学び取って。
自分なりの問題意識と、自分なりのやり方で。
始められることはないだろうか。

その先にHIROBAがある。
だから、最初に向き合うひとは。
最初にそこに呼び入れるひとは。
小田さんしか、いなかった。

(つづきます)

Text by YOSHIKI MIZUNO(2019.4)

Photo/Kayoko Yamamoto
Hair & Make/Yumiko Sano

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