2019.7.24
ESSAY

関取花 連載第5回 ご近所付き合い始めました

ここ二ヶ月ほどだろうか。私の生活にちょっとした変化が起きた。
あるおじいさんと毎日挨拶をするようになったのである。

ご近所付き合い始めました

ここ二ヶ月ほどだろうか。私の生活にちょっとした変化が起きた。
あるおじいさんと毎日挨拶をするようになったのである。

そのおじいさんは私の住むマンションの目の前の家に住んでいる。以前から毎日のように見かけてはいたのだが、どうも気難しそうな人に見えたので特に話しかけたりすることもなく、ただただ横を通り過ぎるだけだった。

そんなおじいさんとなぜ急に挨拶をするようになったのかというと、あれは友人と遅くまで飲んでいた日の帰り、たしか午前二時くらいだったと思う。おそらくコンビニへ買い物に行く途中だったおじいさんと、道でばったり出くわしたのである。(これまでも何度か深夜のコンビニで見かけたことがある)

私はまさかこの時間に人とすれ違うとは、ましてやあのおじいさんとすれ違うなどとは思ってもいなかったので、ほろ酔いだったのとびっくりしすぎたのとで、反射的に謎の防衛本能が働き「こんばんは!!」と声をかけてしまった。すると、思っていたよりもはるかに柔らかい声で「こんばんは」と返事が返ってきた。

正直、挨拶などしたところで返ってこないもしくは「まったくこんな時間にチャラチャラ出歩いているんじゃないよ」と説教でもされそうなイメージだったので、良い意味でそのギャップにかなり驚いた。そしてその次の日から、せっかくだから私はおじいさんに会ったら挨拶をすることにしたのである。

何度か挨拶をしているうちに、おじいさんの挨拶にも微妙な変化が現れてきた。
いつもは基本的に「こんばんは」と声をかければ「こんばんは」と返ってくるだけなのだが、私がギターを背負っている時だけ「こんばんは、今日もごくろうさま」と言ってくれるようになった。なんてことない一言かもしれないが、おじいさんなりに私のことを気にかけてくれているんだなと思うと、無性に嬉しかった。

そして先日、私はついに初めておじいさんと小さな会話をした。
例によってボソボソの服装でタイヤの空気が抜けまくった自転車を家の前の駐輪場に停めようとしていたら、「もうそれかなりタイヤがペコペコだね」と話しかけてきてくれたのである。私が「そうなんです…。もうかれこれ十年以上乗ってるんでいっそ買い替えちゃおうか今ちょっと迷ってます」と言うと、「そうかい?まだ乗れるように見えるけどなあ」と返してくれた。

そこからも最近の天気の話など少しやり取りをして、「それじゃあまた」とお互いペコリと頭を下げて家に戻った。それ以上でもそれ以下でもない会話だが、私にとってはすごくありがたい、なんだかホッとする時間だった。

こういった当たり前の日常会話というのは、決して意識してできるものではない。私には幸い気の合う友人もいるし、悩み事を聞いてくれる先輩なんかもいる。でもそれがどんなに気を許して信頼している相手だとしても、人と会う時には多少なりとも何かしらのスイッチを自然と入れてしまうものである。そこでしか得られないものはたくさんあるが、気付かないうちに消費してしまっているものもあったりする。

それで言うと、おじいさんと挨拶をしたり話をしたりする時は「どうせ誰も見ていないからいいや」という見た目も中身も完全にスイッチがオフの状態の自分である。その状態で何の目的もなくする会話というのは、いつもとはまた違う安心感があるのだ。ひょっとしたら、実家にいる時のそれに近いのかもしれない。

それからも何度か道ですれ違ったりしているが、挨拶はもちろんするけれど、会話はしたりしなかったりといった感じである。味をしめたように毎回会話に持ち込むのも野暮な気がするし、なんとなくこれくらいの距離感が今は心地良いなあと個人的には思っている。とはいえ今までこういった経験をしてこなかったので、正解なのかよくわからないけれど。

この街に住み始めてから約一年、一人暮らしを始めてからは約六年。
もしかしたらこれが初めてのご近所付き合いかもしれない。

関取花(せきとり・はな)
愛嬌たっぷりの人柄と伸びやかな声、そして心に響く楽曲を武器に歌い続けているミュージシャン。
昨年はNHK「みんなのうた」への楽曲書き下ろしやフジロック等多くの夏フェス出演を経て初のホールワンマンライブを成功させた。
2019年5月8日にユニバーサルシグマよりメジャーデビュー。
ちなみに歌っている時以外は、寝るか食べるか飲んでるか、らしい。
関取花オフィシャルサイト

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