2019.8.1
ESSAY

HIROBA編集版
「阿久悠をめぐる対話を終えて」(全8回)
序文「時代を喰って歌を書く」

8月1日は、作詞家阿久悠さんの命日です。
今から2年前の2017年。
阿久さんの没後10年を機に、さまざまなところで、
その功績を振り返る取り組みが行われました。
そのなかで光栄なことに水野も、NHKの番組で
阿久さんのこれまでを取材する機会に恵まれました。
(NHK ETV特集「いきものがかり水野良樹の阿久悠をめぐる対話」2017年9月放送)
番組では、深田太郎さん、糸井重里さん、飯田久彦さん、
小西良太郎さん、いしわたり淳治さん、秋元康さん、
それぞれにお話を伺い、また未発表詞を作品化させる機会も頂きました。
(「愛せよ」歌:山本彩、作詞:阿久悠、作曲:水野良樹、編曲:亀田誠治)

番組放送後、そこでの対話、経験を振り返り、
長文のエッセイを水野の個人ホームページ上に掲載しました。
当時も多くの反響をいただきましたが、
今回、HIROBAにおいても、そのエッセイを再掲載いたします。

阿久さんが歌謡界を席巻した昭和から平成へ。
そしてその平成も終わり、阿久さんが出会うことのできなかった令和の時代となりました。
今あらためて、阿久悠の作品を、聴いてみてはいかがでしょうか。

※この連載は、ETV特集「いきものがかり水野良樹の阿久悠をめぐる対話」(NHK Eテレ2017年9月23日放送)の出演を経て、水野が2017年10月にまとめたエッセイの再掲載です。一部、記述が2017年当時の状況に沿ったものとなっておりますことを、予めご了承ください。

序文「時代を喰って歌を書く」

阿久悠の作品群はなぜ「エバーグリーン」と呼ばれないのか。

あれだけ多くの人々に愛され、なおかつ時間の経過にも耐え、今も歌い継がれていることに疑いはないのに、同時代、あるいは彼以後に現れた作詞家、シンガーソングライターの作品たちに比べると、阿久悠の作品群はこの「エバーグリーン」という単語と結びつけられる機会が圧倒的に少ないように思います。

ある時代の匂いを強烈に放っている、歌たち。

「時代を喰って」とはまさに言い得て妙な表現ですが、彼は常に目の前の社会というバケモノを自分のなかに取り込み、それが求めるもの(=時代の飢餓感)が何かを探り、歌のもとに具現化しようとしました。

一方で、彼がつくる歌には、阿久悠そのものが、時にはっきりとわかるようなかたちで、内在していました。

時代や社会といったとらえどころのない、しかし確実に存在して、なおかつ巨大なものを、存分に喰らって歌をしたためながらも、彼は「巫女(みこ)」ではなかったのだと思います。

阿久悠は主体ある存在として、常に自分の考えを持ち、自己と社会とをつきあわせて、その対峙のなかで言葉を投げかけていきました。

だからこそ、彼がつむいだ言葉たちは、時代と手を握り合うときもあれば、思いすれ違い、時代とはぐれるときもありました。

阿久悠の歌と社会との距離感は、そのまま阿久悠自身と社会との距離感だったのかもしれません。

時代を越えながらも「エバーグリーン」ではないものとして彼の歌がそこに在り続けることは、まさに阿久悠が残した強烈な主張のようにも、僕には感じられます。

2007年に亡くなってから、今年で没後10年。

あらためて阿久悠と、彼の作品群にスポットライトがあたるなかで、自分にもこの巨匠に向き合うチャンスが与えられました。

放牧というタイミング。

ひとりの書き手として自分に何ができるだろうと考える日々に訪れたこの旅は、願ってもないものでした。

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