2019.8.2
ESSAY

HIROBA編集版
「阿久悠をめぐる対話を終えて」(全8回)
第2回「ああ、あれは未来感だね」
対談1:深田太郎さん

阿久悠をめぐる対話のなかで、最初にお会いしたのは、ご子息の深田太郎さんでした。

第2回「ああ、あれは未来感だね」
対談1:深田太郎さん

阿久悠をめぐる対話のなかで、最初にお会いしたのは、ご子息の深田太郎さんでした。

お父様の面影を感じさせる深田太郎さんのお姿に、まるで阿久さんがそこにいるようで、最初は少し緊張しましたが、終始笑顔で貴重なお話を聞かせていただけました。

父は晩年、さみしがっていた。

自分と同じ熱量でぶつかってくれるクリエイターがいない。向き合ってくれない。父がもうズレていたところもあったのかもしれないけれど、でもさびしかったんだと思うですよね。

懐かしむように語る太郎さんの言葉は、お父様に対する敬意と愛情にあふれていました。

阿久悠のなかに深田公之さん(阿久さんのご本名)はどれくらい、いたのでしょう。と尋ねると、

テレビで見ていた父のイメージと家のなかでの父と、そんなに変わりはなかったですね、ずっと阿久悠だったんじゃないかな、ずっと戦っていたんじゃないかな、とのこと。

満足がいく作品だったときは、レコーディングから自宅に帰ってくるなり、まだ幼かった太郎さんを家のオーディオルームにつれだし「太郎、どうだ聞いてみるか。いいだろ!」とできたばかりの音源を聞かせ自慢げな顔をされたこともあったそうです。

「満足そうに興奮していた曲は、実はヒット曲じゃないものも多かったんですよ。」とも太郎さんは笑っておっしゃっていました。

太郎さんはあるとき、何気なく聞いたんだそうです。

「あの鐘を鳴らすのはあなた」の「あなた」って何?

お父様である阿久さんは、同じように何気なく応えたそうです。

「ああ、あれは未来感だね」

体裁を整えねばならないような対外的なインタビューではなく、普段の親子の会話のなかで出てきた飾りのない言葉です。ゆえに、重い。

あの歌における「あなた」の3文字は、時を越えて、その時代ごとの多くの人々を指し示し続けてきました。それを阿久さんは書いた時点で、すでに願っていたのでしょう。震える、エピソードでした。

明治大学の阿久悠記念館で、ご本人が27年間書き続けた日記を拝見しました。

これは阿久悠独特の特殊な日記で、個人的な私事の記載よりも、大半はその日に起こった事件、スポーツニュース、あるいは為替や株価などの経済トピック…などを列挙することで構成されているものです。

1日に生まれる膨大な数のニュースのなかから、自分の興味がおもむくものをいくつか選び取り、編集し、実に淡々と綴っているこの日記は、まさに社会観察日誌のようなもので、少し詩的な表現に言い換えるならば「時代観察日誌」とも言えるものでした。

彼にとってこの日記を書くという行為は、時代や社会に鋭敏な作詞家であり続けるために必要不可欠な、いわば準備や鍛錬のようなものだったようです。

これを27年間もの長きのあいだ、続けています。

あるスポーツ選手が、ある大会で優勝する。そのニュースを数年前には長文の感想も加えて大きく日記で取り上げていた自分が、同じ選手が同じ大会で優勝しても今ではわずかに1行書き記すのみ。

それは社会をみつめる自分自身の価値判断が変化しているということだ。そういったかたちで、社会と、それをみつめる自分、両者それぞれの立ち位置を測り続けるようなものとしても日記は機能していたようです。

彼の創作活動は、彼自身の「私」の世界のなかだけで生まれるものではなく(これは阿久悠が私小説的な表現にとどまるシンガーソングライターを批判的に語る言い回しにも近いですが)常に「私と、社会と」という世界のなかで生まれるものであったように思います。

番組では映っていませんが、日記の閲覧には深田太郎さんにも同席していただき、ふたたびお話を伺っていました。

晩年の日記には闘病に触れる記述も多くあります。おそらく死期を悟ったうえで書き記したであろうと思われる決意の言葉もありました。僕らはどうしてもそこに目がいきがちですが、取材と撮影が終わり、帰る間際、太郎さんが僕を呼び止めました。

「水野さん、また読みたいところがあったらいつでも連絡ください。父は闘病だけじゃないんで。作詞家として戦いつづけたひとですから」

その言葉が強く残りました。

阿久さんは、あくまで作詞家として生き、そして彼が貫いたその姿勢を息子である深田太郎さんも強い敬意を持ちながら守ろうとしている。

冷静にみてみれば亡くなった2007年の日記は、もちろん闘病への言葉もありながら、それ以外は最後まで以前と変わらず、世の中の動きに丹念に目を向け、現役の作り手として社会と対峙しようとする、戦う阿久悠そのものの、凛々しくも静かな記述でした。

最後となった日の記述も、感傷的な言葉はなく、いつも通りの言葉が並べられています。

つまり、阿久悠は最後まで詞を書くための鍛錬(=日記)を続けていたということです。

彼は死ぬまで、阿久悠を降りませんでした。

僕らが見落としていたのは、目立つ記述だけには表れない、さらに根底にある阿久悠の覚悟だったのかもしれません。それを太郎さんは、教えてくださいました。

※この連載は、ETV特集「いきものがかり水野良樹の阿久悠をめぐる対話」(NHK Eテレ2017年9月23日放送)の出演を経て、水野が2017年10月にまとめたエッセイの再掲載です。一部、記述が2017年当時の状況に沿ったものとなっておりますことを、予めご了承ください。

同じカテゴリーの記事