2019.8.9
ESSAY

HIROBA編集版
「阿久悠をめぐる対話を終えて」(全8回)
第4回「阿久さんがここにいても、
僕は同じ話をすると思います」
対談3:糸井重里さん

1980年1月1日。沢田研二さんが新作「TOKIO」を発表します。

第4回「阿久さんがここにいても、僕は同じ話をすると思います」
対談3:糸井重里さん

1980年1月1日。沢田研二さんが新作「TOKIO」を発表します。

70年代後半、「時の過ぎゆくままに」「勝手にしやがれ」「カサブランカダンディ」など阿久悠作品を次々とヒットさせ、時代の寵児となっていた沢田研二さんが80年代の幕開けに歌ったのは、阿久悠の言葉ではなく、新進気鋭のコピーライター糸井重里の言葉でした。

あまりにも、象徴的な事件だったのかもしれません。

「怒っていたと聞いたよ」糸井さんはそう、おっしゃっていました。

今回、阿久悠をめぐって多くの方々のもとを訪れるにあたり、偉大なひとを、ただ偉大だと追認するだけの旅にはしたくないと思っていました。そのうえで、阿久悠と彼の作品群のターニングポイントを、結果的に象徴してしまった「TOKIO」という作品を生み出した糸井さんには、必ずお話を伺いたいと考えていました。

「阿久さんがここにいても、僕は同じ話をすると思います」

そうつけくわえたうえで、糸井さんは嘘やあいまいな取り繕いを加えることなく、思うところをすべてまっすぐに語ってくださいました。あえて言うのならば、その「嘘に屈しない」姿勢は、まさに創作者としての誠実な態度で、自分はあらためて糸井さんに対して強い敬意を抱きました。

糸井さんが「TOKIO」の歌詞づくりを説明する際に、「劇画」という言葉をつかわれたことには、多くの示唆が含まれているように感じられました。

阿久悠は歌詞のなかに「構図」「カメラアングル」といったような概念を持ち込んだひとでもあります。主人公のクローズアップから始まるかと思いきや、その後ろ姿も含めた俯瞰の構図にシーンが移り変わる。阿久悠がつくりだす虚構がいつもドラマティックなのは、映像の世界に影響された「アングル」という意識があるからに他なりません。

糸井さんは「劇画」という言葉を、虚構を描くことの自由さに結びつけてお話されていましたが、「映画」と「劇画」、異なる表現方法でありながらも共通点が多くあります。「劇画」という言葉からは阿久悠の親友であった漫画家の上村一夫の存在も、自然と思い浮かんできます。

また、糸井さんへの「TOKIO」の制作依頼が、当初は「アルバム曲のタイトルを考えて欲しい」というオファーだったというのも、前述の飯田久彦さんがピンクレディーの楽曲をまずはタイトルから阿久さんと考えて制作をしていたという話と、不思議と符合します。

70年代と80年代の分かれ目を、沢田研二という稀代のスターを媒体に象徴してしまった二人の作り手が、奇妙に似通った創作の視点、手法をもっていたことは興味深いことです。

逆から見れば、同じようなスタイルをとっていたにもかかわらず、全く異なるものが生まれていた、とも言えます。もしかしたら、その違いに見え隠れするものこそが、阿久さんが背負わされた時代性であり、糸井さんが背負わされた時代性であったのかもしれません。

「時代という言葉をつかいはじめてから、つまらなくなった」

番組で糸井さんが放ったこの言葉は、実に辛辣ですか、しかし芯を突いている言葉でもあると言えます。

「時代」や「社会」といったとらえようのないものを強く意識した阿久悠は、ときにそれらを見つめようとするばかりに、俯瞰になりすぎ、客観的になりすぎ、自身もその社会のなかにいるという当事者性を失う危険性に、いつも晒されていました。

主観を持った、自分が本心で書きたいものよりも、ただ社会を解説するだけのような歌になってしまい、ある種の熱を失っていく。主観と客観とのはざまで、ぎりぎりのせめぎあいが本人も気づかないところで、あったのかもしれません。

阿久悠の作品が、ときに「説教」的に聴こえるのは、まさにそのラインを越えてしまったときがあったからでしょうか。

糸井さんが放った言葉は、対談最後の相手となった、秋元康さんとのお話にもつながっていきます。

ほぼ日刊イトイ新聞「阿久悠さんのこと」
(番組で取材に伺ったときの模様が、糸井さんのほぼ日で記事化されています)

※この連載は、ETV特集「いきものがかり水野良樹の阿久悠をめぐる対話」(NHK Eテレ2017年9月23日放送)の出演を経て、水野が2017年10月にまとめたエッセイの再掲載です。一部、記述が2017年当時の状況に沿ったものとなっておりますことを、予めご了承ください。

次回:「阿久悠をめぐる対話を終えて」
第5回「勝ちたいんだよ」
対談4:小西良太郎さん
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