2019.9.1
TALK

水野良樹×藍井エイル AFTER TALK with
EIR AOI

真面目なひとというのは
自分のことを真面目であるとは
つゆほどにも思っていない。

AFTER TALK with EIR AOI

真面目なひとというのは
自分のことを真面目であるとは
つゆほどにも思っていない。

真面目なひとは、
「あたりまえ」のことを「あたりまえ」に
やり遂げようとする。

プロであるのならば、
自分を高める努力をするのは、あたりまえ。
ぬかりのない準備を整えるのは、あたりまえ。
そのうえで完璧なステージを披露するのは、
あたりまえ。

「あたりまえ」はそれらがいくつ重ねられても
「あたりまえ」のままだ。

振り返るとそこには、
そのひとが成し遂げてきた
膨大な量の「あたりまえ」が
うず高く積み重なっている。
もう山のようになっていて、
ひとの背丈などとうに越えていて、
頭をうんと上に向けて、
みんながその山頂を仰ぎみるほどに。

「ひえー、これ、ひとりでぜんぶやってきたの」

「あたりまえ」の山に驚愕するひとびとは口々に
「なんてすごいことを成し遂げたんだ。
彼は、彼女は、偉大だ。天才だ」
と感嘆する。ときに喝采し、熱狂する。

とうの本人は、下を向き、首を振る。

彼、彼女は、どんなに山のように高く
過去が積まれていても、
それらが「あたりまえ」の集積であることを
知っている。

なぜか。

真面目だから。

ひとびとは、山という“結果”を見て話をする。
真面目なひとは、いつも目の前の、
ひとかけらのあたりまえを見ている。
それは立ち向かわねばならない、
現実、と言い換えてもいいかもしれない。

私はあたりまえのことしか、できていない。
いや、あたりまえさえ、
できていないのかもしれない。
ほら、このひとかけらのあたりまえを拾って、
手の中で見てごらんよ。
右端のところが欠けている。
このあたりまえも
完全なあたりまえであるとはいえない。
なんて自分はダメなやつなんだ

真面目なひとがこぼす「自分はダメなやつ」は
まわりからすると「いやいやいや」という
否定の言葉しか呼び起こさなくて
(それはまごうことなき本心だが)
どうもいつだって会話が噛み合わない。

みんな、薄々、気がついている。

「あたりまえ」を繰り返し、そして続けることなど、
ほとんどのひとにとって不可能に近いことを。

いや、もっと言えば、
たったひとつの「あたりまえ」を
成し遂げることだって、
本当はとっても骨の折れることだということを。

でも、真面目なひとは
真面目だから、たいへんだ。

そんな本当のことに気がついたとしても、
いや、「あたりまえ」だからと
姿勢を崩すことなく前に突進していってしまう。
首を傾げながら。
納得できないという表情をしながら。
それでも、それでも、と
「あたりまえ」に向き合ってしまう。

そして、さらに大きな山を、つくってしまう。

だから

愛される

膨大な「あたりまえ」と向き合い続けることは
とてもじゃないけれど、誰もができることではない。
そのひとにしかできない「とくべつなこと」だから、
その姿を応援したくなる。支えたくなる。
愛したくなる。

ひとつの「あたりまえ」を
大事に、丁寧に完成させようとするその誠実さは
とてもじゃないけれど、
誰もが持てる心持ちじゃない。
そのひとにしかない「とくべつなこと」だから
その心を尊敬したくなる。追いかけたくなる。
愛したくなる。

藍井エイルさんが、少しのお休みを経て、
戻ってきたステージ。

そこにお客さんが笑顔で待ってくれていたことを
彼女はほんとうに喜んでいたようだったけれど。

それは彼女が経てきた
とても尊い「あたりまえ」の旅の厳しさを
やはり多くのひとが気づいていたからだろう。
真面目なひと、であり続けてきた彼女を
多くのひとが愛していたからだろう。

ステージ上でも、今までよりもう少しだけ
素直な自分を出してもいいのかもしれない。

そんなふうにこぼした彼女の言葉が
“逃げ”ではなく“前進”であることを
彼女の今までの旅を知っているひとびとは
もう、ちゃんとわかっているのだ。

愛すべき
真面目なひとの物語は
だからちゃんと
“あたりまえ”に、続いていくのだ。

Text by YOSHIKI MIZUNO(2019.8)

Photo/Kayoko Yamamoto
Hair & Make/Yumiko Sano,
Hideaki Mayumi

同じカテゴリーの記事