2019.12.16
ESSAY

そして歌を書きながら 犬を撫でているとき

2019年春から、共同通信社より各地方新聞社へ配信されている水野良樹の連載コラム「そして歌を書きながら」(月1回)。

その本文を加筆修正したHIROBA編集版を、お届けします。

犬を撫でているとき

犬を撫でているとき、こちらもまた、犬に撫でられているのだ。
いや、別になにか哲学的なことを言おうとしたわけではなくて、かわいい犬を撫でることは何にもまして心癒やされることだなと、ただそれだけのことだ。

締め切りに追われて夜深くまで作業をする日々。
作業を切り上げて家族もとっくに寝たあとの誰もいないリビングに戻ると、仰向けになって腹をこちらに差し出し「ほれ、撫でろ」と言わんばかりの犬の姿がそこにある。

「しょうがないなぁ」と言い訳のように一言つぶやいてから、わしゃわしゃと手で撫でてやると気持ち良さそうな顔をして、やがて目をつぶり眠ったような顔をするから余計に愛おしい。心情の部分ではどちらが撫でられている側なのか、もはやわからない。
少なくとも作業の疲れは和らぐ。彼の存在は忙しい日常のなかで安らぎだ。

あいだに言葉が無いから良いのだろうか。
面倒な論理も込み入った利害関係もない。いや、犬の側からしてみれば、エサをくれるとか、散歩に連れていってもらえるだとか、彼にとっては重要な“利”が飼い主のうしろ側に見えていて愛想を振りまいているのだろうけれど。

でも、そうかと思えばこちらがため息をついているようなときに限って、いつもより近くに寄ってきて甘えるような仕草をみせてくれたりする。こちらの気持ちがわかっているのかなと都合よく解釈するけれど、それが合っているかどうかは別にして、なにか精神的なつながりが犬とのあいだにあるのだと感じられる瞬間は愛おしいものだ。

人間社会は複雑だ。誰だって名前があり、ときに肩書きがあり、ときに役割がある。
「あなたはあなたのままでいい」と言われても多くの場合、字面通りには受け取れない。たいがいは互いにとって都合の良い期待される関係の節度があり、それを逸脱しないことが暗黙のうちに了解されている。やはり法を犯してはダメだし、倫理を侵してはダメなわけで、すべてを許し、存在そのものを肯定することは社会のしがらみのなかでしか生きられない人間にとって、深い愛や覚悟を試されることで、簡単なことではない。

なんだか大きな話になってしまったけれど。
デビューしてグループの名が知られはじめた頃、活動を助けてくれる関係者がどんどん増えていく時期があった。それは幸運な物語だ。チームがでかくなる。「こいつらをなんとか助けてやりたい」「こいつらとだったらおもしろいことができるかもしれない」と思ってくれる人たちが、まわりに集まってくる。それは活動を大きくするうえでとても大事なことだ。

その一方で「もし自分が良い曲を書けなければ、この人たちは去っていくのか」と不安に駆られたこともあった。プロだから当然ではある。あくまで能力に惹かれて人が集まり、人間関係ができる。それは職業人として向き合うべき現実でもあったが、そんな頃、実家の両親の言葉に助けられた。

彼らは「寝ているか?」「食えているか?」という二点に集約される質問しかしない。
ようは自分が良い歌が書けなくても、自分が生きていることを許してくれているわけで、そんな大げさなとは思うかもしれないが、これは音楽を仕事とする人生のなかでは支えとなった。毎週の締め切りに肉体的にも限界がきていた頃、家では冗談まじりに「もう引退したいわ」と愚痴っていた。そのたびに妻は「どうぞ、どうぞ」と笑って応えてくれた。曲をつくれなくなっても、自分の存在を認めてくれる誰かがいる。

毎日、テレビのなかで誰かが謝罪している。
仮に自分が過ちを犯してもこの犬は帰宅すれば変わらず尾を振り、自分を出迎えるだろう。理屈を外して受け入れてくれる存在はやはり尊い。そう思っていると、犬のうしろから息子も笑顔で駆けてきた。ああ、彼もだ。これが家族か。
そう気付いて、彼らに笑い返した。

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