2020.4.13
TALK

松井五郎さんにきく、歌のこと 2通目の手紙「書くことは、すなわち、書かないこと」
水野良樹→松井五郎

作詞家の松井五郎さんに、水野良樹がきく「歌のこと」。
音楽をはじめた中学生の頃から松井五郎さんの作品に触れ、強い影響を受けてきた。
もちろん、今でも憧れの存在。
そんな松井五郎さんに、歌について毎回さまざまな問いを投げかけます。
往復書簡のかたちで、歌について考えていく、言葉のやりとり。
歌、そして言葉を愛するみなさんにお届けする連載です。

2通目の手紙「書くことは、すなわち、書かないこと」
水野良樹→松井五郎

松井五郎様

ご返信、ありがとうございます。

頂いたお返事に、またお手紙を書いて戻そうとしている、ほんの2週間のあいだに世の中の空気はさらに張り詰めたものになっていきました。直視しがたい現実に誰もが疑心暗鬼となって、怒りや不安に心を持っていかれてしまい、刺々しい言葉が、目の前に溢れていくばかりです。

しかし、それらは吐かれるべき言葉であることも確かです。危機にあって、市井のひとたちの言葉が遮られるようなことは、あってはなりません。それらもまた生まれてくることを守らなければならない言葉たちだと思います。

今までも、日常を揺るがすようないくつもの災害や事件…つまりは悲劇が起こってきましたが、その多くはどんなに大きなものでも、いくらかの“遠さ”を持ってそこに存在している悲劇でした。同時代に生きていても、それらは“他者”の物語であったように思います。(だからこその分断もありました)

しかし、この春に起きていることは否応なく、ひとりひとりを当事者にさせてしまう、物語の主人公にさせてしてしまう悲劇です。玄関のドアを開け、ひとたび足を一歩進めてしまえば、その瞬間に、僕らは何らかの不安を風のなかに感じ取ります。

その風のなかで、ひとりひとりがなにがしかの思いにかられ、言葉をこぼしていくことは自然なことです。世の中に膨大な量の言葉が溢れていって、海が荒々しく、うねっているようです。

そんな言葉が飽和していく“今”を目の前にして「書かないこと」について松井さんにお話を伺うというのも、思いも寄らないかたちではありますが、奇遇なめぐりあわせです。

前置きが長くなりました。
すみません。やっぱり語りすぎになります。

たくさんの教示に溢れていたお返事(本当にありがとうございます)。
いくつかセンテンスを拾わせて頂きながら、考えたことを書かせて頂きたいと思います。

──書かない事はなにかを考える時、書きたい事はなにかを考えるという前提がある──

──行間や余白はあくまで記された言葉があって意味を持つ──

歌詞のことを尋ねていたはずなのに、このセンテンスを読んだときにふと頭をよぎったのはむしろメロディのことでした。メロディというものは突き詰めれば“有”と“無”の連続です。発音された状態と、無音の状態とかが、絶妙な塩梅で行き来することでストーリーが生まれ、良いメロディとなります。

HIROBAで対談した作曲家の大野雄二さんは「音ってね、休みがないと“ない”んだよ」とおっしゃっていました。
参照:【大野先生に聞いてみました】HIROBA with 大野雄二 第1回 音がないから、音がある。

音が“ある”ってことが“ない”ことの証明になり、音が“ない”っていうことが“ある”っていうことの証明になる

有と無とが、相互に補完しあって、たがいの存在を際立たせることによって、いいメロディは生まれていくのかもしれません。

ひるがえって歌詞も、“書いたこと”によって立ち上がってくるものが“書いていないこと”であるということなのだと思います。

──実は自分がそれほど言葉を知らないと気づきます。グラスひとつを言葉で描写することも難しい。正確さと言えば写真に到底敵いません。そうなると、そこには既に、書ける事、書けない事、或いは書くべき事、書かなくていい事が、在るのではないか──

これを読み解いていくのなら、書き手の能力(あるいは熱意、決断)によって“書けること”の深さ、広さが決まったときに、呼応するように“書かないこと”の深さ、広さも同様に決定づけられるのかもしれません。

大樹が大地のうえにそびえ立っている。
しかし、その大樹のふもとには、深く根が張られています。
地上から見える部分と、地下に埋まって見えない部分は、しっかりと相関している。大樹は、それに見合った根を持っているはずなのです。

雪が降る
遠いふるさと
なつかしい
涙になれ

「あの頃へ」安全地帯(作詞:松井五郎、作曲:玉置浩二)

大好きな曲です。
徹底して主格が登場しないこの歌は、イメージだけが寄せては過ぎていく波のように、流れていきます。それらが玉置さんの情感豊かな歌声によって、単なる情景以上の情報を与えられていきます。

この歌をただつぶさに読んで、意味を追っていくことはおそらくできません。ですが、不思議と聴くほうは、自分の心のなかに、この歌の“意味”となる感情をみつけていきます。それは“言葉以前のもの”です。

“書いたこと”に豊かさが込められているとき(あるいは“書いたこと”が歌い手の力、メロディの力ともつながって、膨らんでいったとき)、その分、聴き手のなかに“書いていないこと”の豊かさが生まれるのではないでしょうか。

一方で、この“有”と“無”の相関関係による作品の豊かさは、松井さんが例をあげながら示してくださった様々な作詞の技法的トライで、多くが実現できることでもあると思います。

視点の移動、フォーカスするもののチョイス、感情描写と情景描写の往復。
いつぞやレコーディングスタジオでふと話題にのぼった「津軽海峡・冬景色」の歌詞も、まさに極めて高度な技術がつめられた歌詞です。

まるで映画のようにカメラアングルが切り替わっていき、情景だけが淡々と描かれていくのに、聴き手の心のなかには書かれていないはずの“感情描写”が勝手に広がっていきます。

そしてくしくも、最後は「ああ」というたった一言の“感情描写”。
石川さゆりさんの歌声は、ものの見事に、言葉以上の意味をそこに与えます。

──書くことだけで現せたという錯覚を僕は怖れます──

言葉の書き手が、“書く”という行為があくまで一面的であることを、どこまでシビアに見つめていられるか。いや、むしろ、“書く”ことが一面的であるがゆえに僕らは“書かれなかった”豊かさに出会え、歌い手や聴き手が与えてくれる豊かさに出会える。そのことに、どこまで素直でいられるか。

難しいことです。

その大事な心構えを、教えていただいた言葉のように思います。

また長くなってしまいました。問いを考えなくてはなりません。

せっかく触れてくださったメロディとの関係について、今回は深く触れることができませんでした。

表裏一体の存在として、一体化していくメロディ。そこに言葉をつなぎとめようとしていくとき(混ぜ合わせると言ってもいいかもしれません)、松井さんは「ブレス(息継ぎ)から書く」といった表現をされていました。

様々なシンガー、ソングライターのメロディと向き合ってこられた松井さんが、言葉を歌にするときに心がけていることを、またゆっくりとお話いただけたら、幸いです。

不安が街を覆っています。
でも、たぶん、歌は孤独なひとのそばでこそ、よく灯ると僕は信じています。
自分という人間は信じられないけれど、歌のことは信じています。

どうかご自愛ください。またお返事、お待ちしております。

水野良樹

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